数字は無個性ではない その2
その1では経済的な指標を時代的な背景と切り離して考えたり、あらゆる項目を一緒くたにした平均だけを見ると実際の状況から乖離した印象を与えてしまうことの例について書いた。
その2ではもう少し一般的な話としてこの記事のタイトルである数字の個性について書きたい。
数字というのは人間の思考を助ける道具としてそれこそ壁画の時代から使われて来たようで、文明の発展とともに数学という学問として発展し、世界のあらゆる現象を説明してきた。そういうわけで数字は言葉と同じぐらい人間の思考と密接に関わっているのだが、いつの間にか数字といえば科学と連想され、さらに科学といえば理性的で絶対的なものと連想されることで、数字が科学のための道具と認識されるようだ。
しかしながら、先ほども確認した通り数字というのは人間の思考と密接に関連していて、言葉でいうところのオノマトペのように風がビュービュー吹いていると言われるとなんだか寒いような感じがしたりするように、数字の7や1というのはプラスなイメージがあったり逆に4や13なんて数字は不吉なイメージがある。これは歴史的な背景があって、このように感じる文化が形成されたわけだが、他にはただ100という数字を思い浮かべると基本的に大きいと感じる人が多いだろう。たしかに100個のリンゴと言われると多いように感じる。しかしこれが100粒の砂と言われると少なく感じるし、100枚の10円玉は子供にとっては十分な額だが大人には重いだけで物足りない額ということになる。とはいえそういった社会的背景を抜きに考えた時に100という数字が大きく感じるのは、人間の持っている数字のイメージは100個だとか100頭というような単位であるように思える。とするならばやはり数字はそれ単体でも個性があるということの表れなのではないだろうか。
そうだとすると、ただそのものだけで個性を持っている数字に単位だとか定義が付け加えられれば、それはもう完全に個性的な存在であって、数字そのものだけを見ても得られる情報は限られていてその数字の生い立ちから丁寧に見てやる必要があるということではないだろうか。
それは非常に手間のかかることかもしれないが、何事もそれなりに手間はかかるのだ。情報の伝達スピードがどれだけ速くなっても、最終的に受け取る人間の脳の処理速度はデータ転送速度ほど速くなってはおらず、それなりのことを判断しようとするには関連する多くの情報を集めて、それらを付き合わせ、うーんと頭をひねってやる必要があるということを忘れてはいけない。
しかしながら、数字によく触れている理系の学生は、数字の扱いに慣れているように思えるのだが、数字の威力にあてられて数字を謙虚に見つめるということを忘れてしまったり、数字に向き合い過ぎて他人の評価が入った数字を見て無批判にそうなのかと納得してしまうことがある。それでも、理系学生としていやいや待てよと、この数字の定義はなにか、どのような計算で出てきたのか、どうやって集めたデータを元に計算したのか、データを集めたときの環境はいかなるものなのか、といった様々な視点から数字を見つめる姿勢を世に示していくことが求められるのではないか。
数字は無個性ではない その1
1月以上更新できていなかったのでさすがに何かしら更新しないといけないと思いつつ、定期的に2,3000字の記事を更新するというやり方は続かないと思い、記事を分けて更新することにしました。
書いてあるものを分割している訳ではないのでその何まで続くかは不明です。
先日いつものようにtwitterを見ていると安倍政権の成果と題して2012,2010年と2017,2016年の失業率やGDPなどの経済指標を比べたツイートが流れてきた。このツイートは2.5万回もリツイートされているようでこれをもって解散総選挙は自民党を応援しようという人が多かったようだ。野党に確固たる地盤を持つ受け皿の見当たらない状況を鑑みるに、自民党支持派の多さは当然とも言えるのかもしれないが、この比較は比較という体をなしていないと言わざるを得ない。08年のリーマンショックと11年の東日本大地震という非常に大きな混乱があった中での経済指標と、震災の復興と20年の東京オリンピックに向けた建設ラッシュの中にある現在の経済指標を比べることが果たして比較と呼べるのだろうか?
このようなことは挙げればきりがないが、もう1つぐらい挙げると今年の大卒求人倍率が2010年以来の高さで売り手市場と言われていたが、企業規模別に見れば売り手市場なのは中小企業であって大企業もいわゆる失われた10年に比べれば高いものの残念よりも低く、大企業に関して言えば去年こそ売り手市場であった。また業種別に見れば建設業と流通業が建設ラッシュとネット通販の拡大によってここ数年求人倍率がうなぎのぼりの売り手市場となっている一方金融やサービス業、製造業は09年以降低迷が続いているのが現状だ。
多くの人々、さらに言えば同じ大学の学生までもが数字のトリックに引っかかってしまうのは見ていて悲しい。
その数字に意味はあるか
研究をしていると、その数字はいったいどういう数字なのかという問題がたびたび浮上する。
なにかしらの実験データを示すグラフを出したとき、それは何を表しているのか、どんな実験で出したのか、生データなのか計算値なのか、測定装置は何でどういう原理なのかなどグラフ1つをとってもいくらでも疑問が湧き出てくる。
他には実験装置の部品を図面を書いて発注するときには、どうしてその大きさなのか、なぜここを基準にして寸法を入れたのか、その寸法はぴったしの寸法じゃないといけないのかそうでないのかというような疑問が湧き出てくる。
普段の生活ではそれほど数字を意識しないが、金額や長さ、気温などは毎日目にする数字だろう。
金額はお金を1つ1つ数えればいくらかわかるし、100円のものは100円で買える。
長さはすこし厄介でもの同士を付き合わせてもどっちが長いかぐらいしか分からない。ちゃんと長さがいくらか知りたかったら物差しを使う必要があるが、物差しさえあれば日常で困ることはないだろう。
この2つから言えることは数字には目で見て勘定できるものと、道具を使わないと勘定できないものがあるということだ。
そして気温も暑いか寒いかぐらいは感覚的に分かるが、長さと同じようにそれが何度かは温度計がないと分からない。温度は温度計の目盛りを見れば分かるが、それは温度と液体の膨張が対応しており、液体の膨張に対応した目盛りがあるから温度を測ることが出来るのであって、直接温度というものを測っているわけではないのだ。
このことから分かるのは、数字には道具で直接測れるものと、2つ以上の対応関係の何かしらを道具で測ることで間接的に測れるものがあるということだ。
工学の分野などで使う数字というのはその多くが後者の直接測れない数字なので、色々な測定装置を組み合わせたりして欲しい数字を集める必要がある。
つまるところ、何かしらの研究でデータを集めるには測定装置なりの自分以外の誰かの力を借りないといけないということで、そのため数字を見たときにその数字はどうやって出てきたのかよく考える必要があるのだ。
こういうことは社会とか経済の分野でも言えることで、貧困率だとか食料自給率というような数字は自分一人で調べることが出来ないので、やはり何かしらの団体や機関に集めてもらうしかない。そのためその数字は誰がどのように出した数字なのかちゃんと考える必要がある。
このような統計といった数字は数学や物理の法則によって決まっているようなものではないので、その数字を評価するには手続きの方法を精査すること、信頼のおける機関が出したものかということが大切になってくる。
このデータは信頼性の高い機関から出されたデータだから確からしいという考え方をするのだ。
この信頼性という考え方は工学の分野でもよく使う考え方で、特に応用的な研究で出てくるデータ全てを突き詰めて考えたり、すでに他の人が調べたことをまた自分で調べていたら研究が全然進まなくなってしまうため、ある程度のところで信頼性によって保証する必要がある。
つまり数字をただ並べてもあまり意味はなくて、その数字はどうやって出てきたのか、その数字にはどれほどの信頼性があるのかといったこともセットにして初めて意味のある数字になるということを肝に命じておくことが大切で、
最近ベンチャー企業に就職した友人がサラリーマンの方がハイリスクローリターンで起業こそローリスクハイリターンというような主張を繰り広げていて、それの元となっている記事を紹介していたので覗いてみたら、具体的なリスクを評価する数字がなく、東芝を引き合いに雇われることのリスクを解くばかり、以前企業の存続率なる数字が非常に低いというのを聞いたことがあった私はやっぱり起業の言うことは信頼ならんな思ったのだが、
企業の存続率という数字がどんなものだったか確認してみようと調べてみたところどうろ出所がはっきりせず、見つけられたのは1年間に日本全体の新規事業所数と廃業した事業所数ぐらいで企業の存続率なる数字は見つけられず、これまで述べてきたことを再確認させられてしまったのだ。
よくよく考えれば企業の存続年数を調べるには企業1つ1つを個別に調査する必要があるので、全国規模で行うには非常に辛いものになるだろうから当然と言えば当然なのだが、どうしても数字があると思うとプロセスの困難さを忘れてしまうのだ。
つまるところ、物事を比較するときには個人の感想ばかりでは意味のある議論にはならず、数字を使って比べることが重要であることはもちろん、その数字が個人の思い込みではないか、どのようなプロセスを経て出てきた数字なのか考え、データの持つ信頼性についても加味して議論を行うことが、思考に意味や価値を与えてくれるということを忘れてはいけない。
塾は格差を拡大しているのか
塾は格差を拡大するから無くすべきだという人がいる。
確かに塾に通っている子供は裕福な家庭の子供が多く、塾に通った子供は後に高い所得を得ることが多いというのは感覚として分かるし、実際家庭の所得と子供の通塾率には比例関係があって、家庭の所得はさらに子供の所得にも比例関係があるといった統計もある。
しかしながらだからと言って塾が悪いのかというと、それは事実を誤認していると言うしかない。
そもそも親が子供により良い生活を送ることを望むのは自然なことだ。
そして、学力が将来の所得に大きな影響与えうるこの社会において、子供を塾に通わせることもまた自然なことだ。
さらに言えば、人間が自らの知識や技能を向上させようとするために塾に通ったり、スポーツクラブに通うことも自然なことで、そこに善悪というものを評価することは出来ない。
このような発言をする人が抱えている問題の根っこの所は塾が悪いのかというようなところには無く、より広い視点で考える必要があるだろう。
このような考えの出発点となっていることの1つに塾に通っている子供とそうで無い子供との間の学力差が大きいというものが考えられる。
現実問題として学校教育だけで難関校に合格することが難しく、そのため難関校合格のために塾に通わせて勉強せざるを得ないという状況がある。
だからと言って、学校教育だけで難関校に合格できるようにするべきかというと国際競争の時代において学力のレベルを下げることは出来ないだろう。
それではもっと学校教育のレベルを上げて、学校教育だけで難関校に合格できるようにするべきかというとこれもまた難しい。
そもそも学校というものは学問の追求を第一の目標にしていなく、学校は教育を施すところであって学問を修めるところではないからだ。
また現実的な問題として教師が一様で高レベルな教育を行うことは難しく、さらに言うと大学全入時代で6割の人が大学まで進学すると言っても授業料に見合った就職ができる大学に進学できる人は4割が良いところだ。この状況にあって教育者はどうしても少数のアカデミックな生徒を教育することよりも、多くの非アカデミックな生徒を教育する方に力を入れざるを得ない現状がある。
それではやはり、親よりも高い所得を得るためには、所得の高い親の子供として生まれるしかないという不毛な現実を受け入れるしかないのかと言うと現実はそこまで悲惨ではない。
確かに親の所得が子供の将来の所得を決定する傾向は認めざるを得ない。
しかしながら、親の所得が高ければ高いほど子供の将来の所得が高くなるのかというと、それは飽くまで相関関係があるだけで、親の所得が子供の所得を直接決定するという訳ではない。
親の子供の教育に対する投資の費用対効果には限界があって、金で子供の学力は買えないのだ。
そしてもう1つ忘れてはいけないのは、塾に行かなくとも難関校に合格することは不可能でないということだ。
入学試験は基本的に教科書に準拠することが求められており、教科書さえしっかり勉強すれば理屈の上ではどんなところでも合格することができるようになっている。
この原則の上に、情報社会によって高額な料金を払わなくても質の高い教育を受けられる環境ができつつある。
これによりそもそも教育投資における費用と得られる効果には限度があり、その費用そのものがIT技術によって下げられている。
この現状を考えるに、教育格差の問題は時間が解決してくれると言えるわけだが、それでは今の世代には我慢を強いるのかと言うとそれは酷な話で、教育格差を小さくする努力を惜しむべきではないのは言うまでもない。
ひとまずは、今ある無料の教育情報を集約し広く周知を行うこと。
そして有権者として教育に対する予算の増額を求めること。
これはあまり手間もお金もかからない今すぐに可能なことで、塾を無くせと言うぐらいならこのような方向性で教育について発信していくことが生産的ではないだろうか。
とはいえ教育格差の問題には、金銭的な問題以外にも教育に対する意識差という大きな問題もあるが、これについてはそのうち書こうと思う。
ネットかぶれ
高校に入った頃から同級生などで2ちゃんねる、主にまとめサイトなどで取り上げられるvipやなんj、おーぷんなどで多く飛び交っている考え方をコピーしたような話をする人と出会ったり、またはそういう人にいつの間にかなっていることが起きるようになった。
例えば、歴史の話となるとヒトラーの経済政策は良かったとか、政治の話になると反日がどうの生活保護の不正受給がどうのというような、まとめサイトが好きそうな話を、まとめサイトで見たような論調で話しだすような人だ。
どうしてこういうことが起こるのか振り返って考えたとき、これまでの20年間でネットの状況は目まぐるしく変化したのだなと驚かされる。
自分がまだ小学生になったあたりの2000年代頭、この頃は電車男やフラッシュ倉庫などの影響である程度2ちゃんねるを知っている人も多かったかもしれないが、独特な言葉遣いや半年ROMれといった言葉のように排他的な性格から、取っ付きにくかったため中学に入る頃には2ちゃんねるは一部のいわゆるオタクと呼ばれる人ぐらいしか見てなかった。
しかしながらその頃からニコニコ動画の会員数が増えたり、まとめサイトが増えたりすることで2ちゃんねるの文化がいわゆるオタク以外にも拡散しはじめた。
それを一番感じるのはネット流行語が一年後にはギャル語流行語になるというもので、かなり閉鎖的だったネット文化が流動性を持つようになった現れだと思う。
それが高校に入ってスマホが本格的に普及すると、まとめサイトのキュレーションアプリやSNSによって2ちゃんねる文化の拡散が加速した。
それまで混沌としていたネット文化が情報と利用者の増加によって本格的にビジネスの場となり、閲覧者数を稼げるものが表面に出て来やすくなることで結果的に過激な思想や議論を呼びやすい話題を扱う場としての2ちゃんねる文化が拡散することになった。
さらにSNSによってそれまで現実とは離れたネット上の人格としてそのようなネット上の言説に触れていたのが、ネットと現実が直結することでネットで共感した言説がそのまま現実の自己の考え方として吸収されるようになったのかもしれない。
ネット上の言説の良くないのは善か悪かを決めつけ、一度悪だとされたものを徹底的に攻撃するという傾向だ。
誰かしらの言動に対して関係の無い人間がこれは許されないことだと拡散し、さらに関係の無い人が同調して、その人の過去の言動や個人情報をまた関係の無い人間が調べて晒し、さらに炎上を煽る。
冷静に考えれば、もしそれが犯罪であるならば当事者が警察なり弁護士なりに相談すれば良いだけのことで、犯罪でなければより一般的な事として問題提起すれば良いだけで、そもそも顔も知らない人に暴言を浴びせてもなんら得がないのが分かるだろう。
しかしながらこういうどうしようもない事が度々発生するのはなぜか考えることは非常に面白いと思う。
このような傾向と合わせて見られるのが、何かしらのルールについては厳格で他人に指図するにも関わらずその他ではルールを平気で無視するというものだ。
Twitterでパクツイを見つけては晒して糾弾していながら、違法アップロードされた動画をシェアして楽しむといった一貫性のない行動をしている人がいる。
これは先ほどの炎上についても言えることで、何かしらの悪を糾弾するために個人情報を公開したり、殺害予告をする行動と似ていて、悪を懲らしめることが主軸になってしまっていてそこに思想や信条というものが抜けてしまっているのかもしれない。
このような傾向の強いネット上の言説にまだ考え方の軸のない中高生が触れることは投票権が18歳から与えられることを考えると良いことでは無いだろう。
しかしながら、だからと言って若年層をネットから排除するという時代を逆行するようなことはするべきでないし、ほとんど不可能だろう。
自分の経験では父の仕事柄小学校の低学年の頃から自分のパソコンを持っており、年上の兄の影響もあって比較的早い時期からネット文化に触れていた。
さらに中学校で部活もしていなかったこともあり、飽きるほどそういったものを目にする時間があったので、何度も何度も同じような言葉で罵ったり、狭量な価値観から来る偏見を見ることでそういったものと上手く距離感を保ってネットを利用することが出来るようになった。
良くないのは、部活終わりの疲れた頭でTwitterなどで流れて来た一部の偏った考え方に触れるというものだろう。
そういったネットの使い方は莫大な情報を簡単に入手できるというネットの良さを無駄にしてしまって、むしろネットによって世界を縮めてしまうものだ。
健全な身体と頭で大量の情報を入れることはありとあらゆる考え方に触れ、柔軟な考え方を鍛えるのに良い方法だろう。
小中学校はどうしても特定の地域の人とばかり触れ合うために学校が世界の全てと思い込んでしまうが、ネットがあればより広い世界を認識することができ、閉じこもってしまった心を解放する助けになったりする。
当然テレビしか無かった時代も同じなのではないかという疑問も確かにある。
その大きな違いは特別でない人々があらゆるメインコンテンツからただの雑談まで様々なことを発信していて相互にコミュニケーションが取れる点である。
テレビの欠点はテレビで知る世界というのは、ただテレビの中の世界であって自分とは関係のない世界であるように感じてしまい、実感として世界の広さというものを得られないということだ。
ネットはこの点でテレビよりも優位であるが、youtuberの出現といったネットの商業化によってネットがテレビと同じように自分とは関係のない特別な世界と感じるようになった。
そのためただテレビのように受動的にネットを使うのでは十分とは言えなくなってきた。
OECDの調査で日本人の学生はネットをあまり利用していないという結果が発表され話題になったが、つまるところTwitterやLINEでのちょいちょい利用が多いということなのだろう。
Twitterは有名人など普通では知り合えない世界中の人々と交流ないし生活の様を知ることができる素晴らしいものだが、実際のところは自分の通っている中高の友達といった現実世界で実際に会えるようなコミュニティを強化しているだけになっているのはもったいない。
ネットにはテレビでも得られる情報はもちろん、尺の決まっているテレビでは難しい一歩踏み込んだ詳細な情報があったり、学校で学ぶ大抵のことがネットでも学べるよう様々な機関がテキストを作っていたり、様々な人の生き方や考え方に触れることもできる。
しかしながら学校の教育はネットの発展に追いつくことが出来ておらず、未だにマウスの操作方法を説明したり、タイピングを練習したりしている。
情報という科目であるならソフトやハードの取り扱い方なんてものはネットで調べればいくらでも出て来るのだからそのようなことの説明に始終することはIT技術の旨味を捨てることで、本当に教える必要があるのは情報をいかに引き出して自分のものにし発信していくかということだ。
そういった教育がなければネットはただ狭量な価値観によって作られた偏見を増幅させるだけのものでしかなくなってしまう。
こういった状況が改善されなければどんどんネットを使いこなせる人と使いこなせない人の間の格差が大きくなるばかりでなく、そもそも情報技術の進化に人間が追いつかなくなってしまうかもしれない。
ネットリテラシーという言葉が重要視されているがそもそもとしてのリテラシーを高めなければ元も子もない。
時代に左右されない普遍的な考え、変化してもなお貫かれる強い信念が必要だ。
研究会とコミュニケーション能力と
研究室に入って2ヶ月、うちの研究室では月に一度研究会というその一月の間に研究したことなどを報告しあう会がある。
研究会ではワードとパワポで発表資料を作るのだが、フォントを統一したり図番号を付けたり、出典を明示するなど体裁を守るのはもちろん、ちゃんとした文章を書くのも意外と難しくて、学術的な説明をしようとすると自分の頭ではなんとなくイメージできても他人が読むと主従関係がおかしくなっていたりすることはしばしば、グラフひとつ取ってもマーカーの指定や適切なグラフ選びもまた難しい。
他にはパワポで図を見せるのに四角やら丸やら矢印やらを駆使して図を作る必要があるが、簡単な図を作るのにも意外に手間暇がかかる。
そして、なんとか資料を作っていざ発表してみるとそれほどお堅い場所でもなくとも意外と緊張するもので、考えていた言い回しとは違った説明をしてしまって上手く伝えられないこともしばしば。
さらに、発表終わりには学生と教授が質問をもらうのだが、意外な質問をされると答えになっていないような回答をしてしまう。
文字に起こしてみると矛盾した会話でも実際に話しているとその矛盾に気付きにくくなる。
こういうことは日常会話ではよくあることで、そういった所では誰も気にはしないが、研究会などのちゃんとした場所ではそれでは困ったことになる。
そのため、ちゃんと聞いてちゃんと話すというのは当たり前のようで意外と難しく、重要なことだ。ということを毎回感じながら研究会をこなしている。
自分は大学院に行くのでまだ就活はしていないが、コミュニケーション能力というのが就活で重要だと誰しもが言う。
しかし、そうは言うもののいまいちどういった能力か判然としないのがコミュニケーション能力というものだ。
よく友達が一杯いてわいわいしている人をコミュ力高いなーと言うが、そういう人は必ずしも話が上手いという訳ではなく、ノリが良いとか面倒見が良いといった人付き合いが良くできる人ということである方が多いように思う。
確かに社内の円滑な人間関係を築くのには大切な能力だが、それを面接で計るのは難しいもので、就活で必要とされるコミュニケーション能力というのとは違うだろう。
就活をしていた人の話を聞くとよく言う自分をものに例えるとなんですかというような変わった質問はあまりなく、エントリーシートに書いてあるような志望理由やアピールポイント、学生時代に頑張ったことなどスタンダードな質問が基本になるそうで、質問に対して論理的に根拠をもって答えられるかどうかというのが重要だという。
こういう能力は冒頭で述べたように研究会といったしっかりした場で発表することで培うことができるのではないだろうか。
そもそもの話題作りにはバイトやサークル、留学、資格勉強などをしないことには始まらないが
その頑張りをちゃんと相手に伝えることが出来なければ、やっていないのと変わりないということになってしまうので
話題作りばかりをするのではなく、正しい根拠を示し、正しい言葉で自分の考えを相手に伝えるという当たり前のようで難しい能力を研究会などを通して培うことも大切なことだ。
教科書に何万円も使ってられない
高校の教科書がいくらだったかもう覚えてないが、大学に入ると大抵自分で一冊一冊購入することになるため教科書代というのが気になるもの。
大学では科目毎に同じ教科書を使う場合もあるが、担当教授ごとに違う教科書を使うこともあってこれがそこそこ高く、真面目に全ての教科書を買うと3年間で30〜40冊ほどになり、10万円も教科書にかかってしまう。
高校と違い大学で使う教科書は世間一般で使われるものでなく、それほど需要が無いため一冊3,4千円といった具合である。
まあ多くの学生は生協で共同購入という制度を使って10%割引で購入することになるが、それでも貧乏学生には少なくない出費だ。
そこで自分はまず授業も始まる前から教科書を買うことはせず、授業を1,2回受けてから教科書が本当に必要な授業についてはほとんどの教科書を大学の図書館で借り、図書館に無いものは先輩から頂いたり借りたりし、それでも無いものや新品の教科書でないと使えないものに限って新品や中古で購入していた。
それでも3年間の教科書代は2万程度かかったが良い旅行に行くぐらいのお金を節約出来た。
ちなみに自分は入学当初非常にお金に困窮しており、また、教科書を生協で買うつもりがなかったので生協にも加入していない。入学したての頃周囲の学生はみんな生協は絶対に入会する必要があると思い込んでいたので入会しないことに不安があったが、結果として生協に入会する必要は無かった。
つまるところ大学で一人暮らしを初めて右も左も分からず不安だとは思うが、周りに流されるのではなく自分でちゃんと考えて行動することが大切で、受ける必要が無い授業は受けない、必要ないサービスは受けない、部活は自分がしたいことをする。これが入学したての大学1年がたくましく行きていくのに必要なことではないだろうか。