機械系大学生Guishinの日記

奨学金で生計立ててる地方国立の工学部4年生なりに考えたことなどを週1か2ぐらいで書いてます。

ネットかぶれ

高校に入った頃から同級生などで2ちゃんねる、主にまとめサイトなどで取り上げられるvipやなんj、おーぷんなどで多く飛び交っている考え方をコピーしたような話をする人と出会ったり、またはそういう人にいつの間にかなっていることが起きるようになった。

例えば、歴史の話となるとヒトラーの経済政策は良かったとか、政治の話になると反日がどうの生活保護の不正受給がどうのというような、まとめサイトが好きそうな話を、まとめサイトで見たような論調で話しだすような人だ。

 

 どうしてこういうことが起こるのか振り返って考えたとき、これまでの20年間でネットの状況は目まぐるしく変化したのだなと驚かされる。

自分がまだ小学生になったあたりの2000年代頭、この頃は電車男フラッシュ倉庫などの影響である程度2ちゃんねるを知っている人も多かったかもしれないが、独特な言葉遣いや半年ROMれといった言葉のように排他的な性格から、取っ付きにくかったため中学に入る頃には2ちゃんねるは一部のいわゆるオタクと呼ばれる人ぐらいしか見てなかった。

しかしながらその頃からニコニコ動画の会員数が増えたり、まとめサイトが増えたりすることで2ちゃんねるの文化がいわゆるオタク以外にも拡散しはじめた。

それを一番感じるのはネット流行語が一年後にはギャル語流行語になるというもので、かなり閉鎖的だったネット文化が流動性を持つようになった現れだと思う。

それが高校に入ってスマホが本格的に普及すると、まとめサイトのキュレーションアプリやSNSによって2ちゃんねる文化の拡散が加速した。

それまで混沌としていたネット文化が情報と利用者の増加によって本格的にビジネスの場となり、閲覧者数を稼げるものが表面に出て来やすくなることで結果的に過激な思想や議論を呼びやすい話題を扱う場としての2ちゃんねる文化が拡散することになった。

さらにSNSによってそれまで現実とは離れたネット上の人格としてそのようなネット上の言説に触れていたのが、ネットと現実が直結することでネットで共感した言説がそのまま現実の自己の考え方として吸収されるようになったのかもしれない。

 

ネット上の言説の良くないのは善か悪かを決めつけ、一度悪だとされたものを徹底的に攻撃するという傾向だ。

誰かしらの言動に対して関係の無い人間がこれは許されないことだと拡散し、さらに関係の無い人が同調して、その人の過去の言動や個人情報をまた関係の無い人間が調べて晒し、さらに炎上を煽る。

冷静に考えれば、もしそれが犯罪であるならば当事者が警察なり弁護士なりに相談すれば良いだけのことで、犯罪でなければより一般的な事として問題提起すれば良いだけで、そもそも顔も知らない人に暴言を浴びせてもなんら得がないのが分かるだろう。

しかしながらこういうどうしようもない事が度々発生するのはなぜか考えることは非常に面白いと思う。

 

このような傾向と合わせて見られるのが、何かしらのルールについては厳格で他人に指図するにも関わらずその他ではルールを平気で無視するというものだ。

Twitterでパクツイを見つけては晒して糾弾していながら、違法アップロードされた動画をシェアして楽しむといった一貫性のない行動をしている人がいる。

これは先ほどの炎上についても言えることで、何かしらの悪を糾弾するために個人情報を公開したり、殺害予告をする行動と似ていて、悪を懲らしめることが主軸になってしまっていてそこに思想や信条というものが抜けてしまっているのかもしれない。

 

このような傾向の強いネット上の言説にまだ考え方の軸のない中高生が触れることは投票権が18歳から与えられることを考えると良いことでは無いだろう。

しかしながら、だからと言って若年層をネットから排除するという時代を逆行するようなことはするべきでないし、ほとんど不可能だろう。

 

自分の経験では父の仕事柄小学校の低学年の頃から自分のパソコンを持っており、年上の兄の影響もあって比較的早い時期からネット文化に触れていた。

さらに中学校で部活もしていなかったこともあり、飽きるほどそういったものを目にする時間があったので、何度も何度も同じような言葉で罵ったり、狭量な価値観から来る偏見を見ることでそういったものと上手く距離感を保ってネットを利用することが出来るようになった。

 

良くないのは、部活終わりの疲れた頭でTwitterなどで流れて来た一部の偏った考え方に触れるというものだろう。

そういったネットの使い方は莫大な情報を簡単に入手できるというネットの良さを無駄にしてしまって、むしろネットによって世界を縮めてしまうものだ。

健全な身体と頭で大量の情報を入れることはありとあらゆる考え方に触れ、柔軟な考え方を鍛えるのに良い方法だろう。

 

小中学校はどうしても特定の地域の人とばかり触れ合うために学校が世界の全てと思い込んでしまうが、ネットがあればより広い世界を認識することができ、閉じこもってしまった心を解放する助けになったりする。

 

当然テレビしか無かった時代も同じなのではないかという疑問も確かにある。

その大きな違いは特別でない人々があらゆるメインコンテンツからただの雑談まで様々なことを発信していて相互にコミュニケーションが取れる点である。

テレビの欠点はテレビで知る世界というのは、ただテレビの中の世界であって自分とは関係のない世界であるように感じてしまい、実感として世界の広さというものを得られないということだ。

ネットはこの点でテレビよりも優位であるが、youtuberの出現といったネットの商業化によってネットがテレビと同じように自分とは関係のない特別な世界と感じるようになった。

そのためただテレビのように受動的にネットを使うのでは十分とは言えなくなってきた。

 

OECDの調査で日本人の学生はネットをあまり利用していないという結果が発表され話題になったが、つまるところTwitterやLINEでのちょいちょい利用が多いということなのだろう。

Twitterは有名人など普通では知り合えない世界中の人々と交流ないし生活の様を知ることができる素晴らしいものだが、実際のところは自分の通っている中高の友達といった現実世界で実際に会えるようなコミュニティを強化しているだけになっているのはもったいない。

ネットにはテレビでも得られる情報はもちろん、尺の決まっているテレビでは難しい一歩踏み込んだ詳細な情報があったり、学校で学ぶ大抵のことがネットでも学べるよう様々な機関がテキストを作っていたり、様々な人の生き方や考え方に触れることもできる。

しかしながら学校の教育はネットの発展に追いつくことが出来ておらず、未だにマウスの操作方法を説明したり、タイピングを練習したりしている。

情報という科目であるならソフトやハードの取り扱い方なんてものはネットで調べればいくらでも出て来るのだからそのようなことの説明に始終することはIT技術の旨味を捨てることで、本当に教える必要があるのは情報をいかに引き出して自分のものにし発信していくかということだ。

そういった教育がなければネットはただ狭量な価値観によって作られた偏見を増幅させるだけのものでしかなくなってしまう。

こういった状況が改善されなければどんどんネットを使いこなせる人と使いこなせない人の間の格差が大きくなるばかりでなく、そもそも情報技術の進化に人間が追いつかなくなってしまうかもしれない。

ネットリテラシーという言葉が重要視されているがそもそもとしてのリテラシーを高めなければ元も子もない。

時代に左右されない普遍的な考え、変化してもなお貫かれる強い信念が必要だ。