機械系大学生Guishinの日記

奨学金で生計立ててる地方国立の工学部4年生なりに考えたことなどを週1か2ぐらいで書いてます。

数字は無個性ではない その2

その1では経済的な指標を時代的な背景と切り離して考えたり、あらゆる項目を一緒くたにした平均だけを見ると実際の状況から乖離した印象を与えてしまうことの例について書いた。

その2ではもう少し一般的な話としてこの記事のタイトルである数字の個性について書きたい。

 

数字というのは人間の思考を助ける道具としてそれこそ壁画の時代から使われて来たようで、文明の発展とともに数学という学問として発展し、世界のあらゆる現象を説明してきた。そういうわけで数字は言葉と同じぐらい人間の思考と密接に関わっているのだが、いつの間にか数字といえば科学と連想され、さらに科学といえば理性的で絶対的なものと連想されることで、数字が科学のための道具と認識されるようだ。

 

しかしながら、先ほども確認した通り数字というのは人間の思考と密接に関連していて、言葉でいうところのオノマトペのように風がビュービュー吹いていると言われるとなんだか寒いような感じがしたりするように、数字の7や1というのはプラスなイメージがあったり逆に4や13なんて数字は不吉なイメージがある。これは歴史的な背景があって、このように感じる文化が形成されたわけだが、他にはただ100という数字を思い浮かべると基本的に大きいと感じる人が多いだろう。たしかに100個のリンゴと言われると多いように感じる。しかしこれが100粒の砂と言われると少なく感じるし、100枚の10円玉は子供にとっては十分な額だが大人には重いだけで物足りない額ということになる。とはいえそういった社会的背景を抜きに考えた時に100という数字が大きく感じるのは、人間の持っている数字のイメージは100個だとか100頭というような単位であるように思える。とするならばやはり数字はそれ単体でも個性があるということの表れなのではないだろうか。

 

そうだとすると、ただそのものだけで個性を持っている数字に単位だとか定義が付け加えられれば、それはもう完全に個性的な存在であって、数字そのものだけを見ても得られる情報は限られていてその数字の生い立ちから丁寧に見てやる必要があるということではないだろうか。

 

それは非常に手間のかかることかもしれないが、何事もそれなりに手間はかかるのだ。情報の伝達スピードがどれだけ速くなっても、最終的に受け取る人間の脳の処理速度はデータ転送速度ほど速くなってはおらず、それなりのことを判断しようとするには関連する多くの情報を集めて、それらを付き合わせ、うーんと頭をひねってやる必要があるということを忘れてはいけない。

 

しかしながら、数字によく触れている理系の学生は、数字の扱いに慣れているように思えるのだが、数字の威力にあてられて数字を謙虚に見つめるということを忘れてしまったり、数字に向き合い過ぎて他人の評価が入った数字を見て無批判にそうなのかと納得してしまうことがある。それでも、理系学生としていやいや待てよと、この数字の定義はなにか、どのような計算で出てきたのか、どうやって集めたデータを元に計算したのか、データを集めたときの環境はいかなるものなのか、といった様々な視点から数字を見つめる姿勢を世に示していくことが求められるのではないか。